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昭和9年(1934年)日本テニスの天才"佐藤次郎”の突然の自殺に
日本デヴィスカップ代表チームは失意のどん底にいた。
佐藤次郎をウィンブルドンの覇者にする為に、
断り続けていたデヴィスカップ日本チームキャプテンを3年前の昭和6年(1932)から引き受けた三木龍喜の落胆ぶりは尋常ではなかった。
その三木龍喜は、今、佐藤次郎の弔い合戦に臨むが如く
ウィンブルドンのセンターコートに舞い降りた。
三木龍喜は、明治37年2月11日、紀元節の日、四国高松に出生。
由緒正しい武家の生まれで裕福な家庭で小学生の頃から
テニスに親しめる当時としては稀な環境で育った。
硬式テニスが日本で採用されたのは大正2年(1913年)
慶応大学庭球部が最初である。
しかし、硬式テニスが各大学に採用されるまでには
まだ7年の歳月が必要であった。
その翌年の大正10年(1921年)に三木龍喜は
大阪市立高等商業学校(現大阪市立大学)に入学し
硬式テニスを始めた。
いわば日本の硬式テニスの第一期生である。
三木はすぐに頭角を現し、当時のテニス専門誌"ローンテニス”は
彼のスタイルをこう表している。
"自在の人なり。彼の前に難球無し。"
それでは、彼のその後を追っていこう。
大正14年 全日本2位
大正15年 毎日庭球選手権3年連続優勝
昭和2年 22歳にして、日本デヴィスカップチームの一員として渡米。
この米国ゾーンで日本チームは優勝を果たした。
昭和4年 三木は、初めてウィンブルドンにフィリスマッドフォードと
組んでミックスドダブルスに出場するが1回戦敗退。
昭和6年 三木は初めてドロシーラウンドと各地の大会に出場。
当時、全英女子7位だったドロシーをこの後コーチし
全英トップにまで育てあげた。
かくして栄光の時、昭和9年はやってくる。
この年、ウィンブルドンは男子シングルス フレッドペリー
女子シングルス ドロシーラウンドと25年振りに男女とも
イギリス選手の元に帰した年であった。
そのフレッド・ペリーは前年の全仏で佐藤次郎に敗れていた。
佐藤を覇者にする為にイギリスに留まった三木はその思いを
自身で実現し、亡き佐藤次郎にその栄光を贈ったのである。
1回戦 チェコのローラ夫妻
2回戦 フレッシュウォーター・ロバートソン組
3回戦 グランギュス・アンドラスのオーストリア・米混合組
4回戦 オーストラリアのマックグラス・ハーチガン組
5回戦 青木・ハートウィグ組
準決勝 リー・ジェイムス組
6−3 6−2
決勝 オースチン・シェファードバロン婦人組
3-6 6-4 6-0
ドロップショットを多用し、技術の人と呼ばれた三木らしい
勝利は永遠にその足跡をウィンブルドンに残したのであった。
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