世界恐慌1929年の最中、来日したフランス選手団の
プロフィールは以下の通りであった。
フランス四銃士といわれたうちの二人。
H・コシェとトト・ブルニヨン。
アンリ・コシェはリヨン・テニスクラブの
管理人の息子ゆえ7歳の時には既にテニスの
基本を身につけており、日本人と同じような
体格で世界1位となったゆえ、日本選手は
こぞってコシェの真似をしだした。
それは大きな間違いだと後に気付く事になるのだが。
一方のブルニヨンは、テニスの女神といわれた
スザンヌ・ランランのパートナーとして
100名ほどの候補者の中から選ばれたエリートで
あった。
デヴィスカップでは大きな位置を占めるダブルス。
その巧者としてのブルニヨンの来日の意味は
大きかったに違いない。
日本庭球界が独自招聘した興行は大成功を収め
その収益は1万2千円にも上った。
同年のデヴィスカップ収入が734円だった事から
みても如何に日本国民の注目を集めたかが
偲ばれる。
東京ローンテニスクラブ近くの特許庁庁舎敷地に
4,000人が観戦できる木造スタンド付きコートが
新設されたり、甲子園の新設コートには
5,000人の観衆が集まった。
世界が漠然とした不安に包まれている中
日仏親善試合は、人々の心を癒したに違いない。
一方その頃のアメリカでは重大な変化が
起きつつあった。
その重大な変化とは?
★世界恐慌時の変化を過去から学ぶには★
世界恐慌前夜の1924年、アメリカには
原田武一がいた。
1918年に終わった第一次世界大戦後の好況で
バブル絶頂をアメリカは迎えていた。
スコット・フィッツジェラルドが
マイロストシティを書き、
街にはダンスミュージックとしてのジャズが
席巻し、狂乱の時代を迎えていた。
武一と同じ年代のスター達も活躍し始めていた。
それは、ハンフリー・ボガードとアル・カポネ、
アーネスト・ヘミングウエイであった。
時代の変わり目には傑出したスターが一挙に
生まれるものなのだ。
ヘミングウエイの第一次世界大戦の経験から
生まれた”武器よさらば”が世界恐慌の年に
発表されたのも何かの因縁かもしれない。
1924年にアメリカが打ちだした移民法により
悪化の一歩を踏み出した日米関係がなんとか
30年代まで決定的な破局を迎えなかったのは
原田や佐藤のスポーツ親善大使としての
存在が大きかった。
何しろアメリカという国はスポーツが大きな力を
持つ国だからだ。
現在、錦織圭選手がストックホルムで大活躍し
世界の注目を集めている。
円がまた世界の基軸通貨としての力を
取り戻しつつある現在、
原田武一と錦織圭の姿がだぶって見えるのは
私の考えすぎだろうか?
世界に正しく日本が理解される為
もう一度テニスの力を信じてみても良いのでは
ないか?
混乱した世界に希望を与えるのは
日本の使命だと感じる今日である。

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