ホワイトハウスのテニスコート

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TENNIS


上記のビデオは1921年に撮られたチルデンの練習風景。
細身で長身の優雅なチルデンの姿がそこにある。

このチルデンの著書で最も有名なのが
ベター・テニス
日本では、
福田雅之助の翻訳でベースボールマガジン社から
発刊されている。

本文は勿論格調の高いものだが
福田雅之助による後記も
非常に興味深いエピソードが多く記述されている。

その中の一つに
ハーディング大統領(1921年3月4日〜1923年8月2日)による
ホワイトハウスのテニスコートへの招待がある。
1923年4月、デヴィスカップ日本代表として
渡米した際、米国代表やスペインのアロンゾ兄弟などと共に
ホワイトハウスのテニスコートに招かれた事を
一代の光栄として忘れがたき事と語っている。

このホワイトハウスのテニスコート。
現在は、ハードコートに作り替えられているが
1923年当時はクレー・コートだった。

そこでは、チルデン、ウィリアムス、リチャーズなどの
米国選手の華麗なテニスが繰り広げられていたのだ。

もっとも、ハーディング大統領は米国史上最低の大統領と言われ
福田雅之助が招待された4月の4ヵ月後の8月に急死。
大統領にとっても、各国のデヴィスカップ代表に囲まれた一刻が
冥土の土産になったのだろう。
一説には、KKK団の一員だったとも言われ
そのハーディング大統領が
黄色人種の福田をホワイトハウスに招いた事。
まさにテニスの持つ力という他ない。

近年では、パパブッシュが、サンプラスと
このホワイトハウスのテニスコートでプレイしている。
何はともあれ良き時代のヒトコマがここにはあった。

ホワイトハウスのテニスコートの全貌はこちらから
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posted by テニスハート at 2011年01月10日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

テニスボールのトリビア

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テニスボール秘話

●ジュ・ド・ポームと呼ばれた初期テニスの時代には、羊や犬の毛

 もしくは人間の髪や髭を詰めた袋がボールとして使用されていた。

●現在のボールの形になったのは1860年代以降。

●試合球として使われているプレシャライズドボール。

 その内部圧力は外部気圧の2倍。空気が抜ければ使えなくなる。

 その寿命は2週間から1ヶ月相当。

●ヨーロッパとアメリカでは表面生地の厚さが違う。

 スピード重視のアメリカは薄く、耐久性重視のヨーロッパは薄い。

 ちなみに織りフェルトの特許は、住友ゴム工業が取得している。

●昔は白一色だったテニスボール。カラーテレビの普及により

 よりテレビ映りがよくなるようにと1968年から製造。

 1970年から全豪オープンに採用された。

● フェルトで覆われている理由はバウンド制御の為。

  ゴムボールの軟式のイレギュラーバウンドぶりからも納得。

●最終工程でボールは蒸されている。できたてのホッカホッカは

 温かい。

以上、テニスボールのトリビア、いかかでした?

まだまだ、ボールについてのトリビアはありそうです。

では、また!


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posted by テニスハート at 2011年01月06日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【動画】マリア・シャラポワgoogle音声認識広告に登場!

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マリア・シャラポワがgoogleの
音声検索VOICEの広告に出演。

ソニー・エリクソンのXperia(エクスぺリア)を手にしながら
以下の質問に答えるという趣向。

爽やかなカントリーに乗って
シャラポワの軽快なストローク。

さすが、ファンが一番好きなテニスプレイヤー。
マリア・シャラポワ
When was Roland Garros born?
A) 1783
B) 1888
C) 1920
A:

B)Roland Garros was born on October 6, 1888

When was the first usopen tie break?
A) 1960
B) 1980
C) 1970
A:
C) 1970
What is the zip code for wimbledon
A) SW19
B) LDN22
C) WNB
A:
A)SW19 is in Wimbledon
全豪オープンテニス/オーストラリアンオープン2011観戦ツアー

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posted by テニスハート at 2010年12月16日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

全米の女王エリザベス・ムーア


Miss E. Moore (LOC) / The Library of Congress

エリザベス・ムーア
19世紀の終わりから20世紀初頭にかけての
女子テニス界において活躍した選手。

Elisabeth Moore,
1876年3月5日 - 1959年1月22日。

現在の全米オープンがオープン化される前
全米選手権と呼ばれていた時代に
女子シングルスで4勝、女子ダブルス2勝、
混合ダブルス2勝を挙げ、通算「8勝」を記録した。

■ウィキペディアのエリザベスのDATAは下記のリンクから

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2

上記の写真は、1910年から1915年の間に撮られた
という伝聞が残っている。

George Grantham Bain Collectionに
収蔵されている貴重な写真で、
当時の新聞報道に使われていたもの。

現在は、パブリック・ドメインとなり
著作権フリーで使用できる事に
フリッカー及びリバティ・コングレスチームに
心から感謝する。

AIR KEI ばりのジャンプ写真だが
当時のこのいでたちで
こんなにジャンプして打てる訳がないので
デフォルメ写真加工されていると推測する。

その昔、1901年以前には
女子テニスも5セットマッチルールで
闘われていた。

その5セットマッチの最後の年の
1901年、エリザベス・ムーアは
全米で優勝した。

つまり、エリザベスは
5セットマッチを制した最後の優勝者として
永遠に女子テニスの歴史に
名を刻む事となったのである。

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posted by テニスハート at 2009年11月23日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ペリエとワインとローランギャロス

ついにフレンチ・オープンの季節がやってきた。

今日から予選の始まり。

この時期のパリの太陽の光は本当に素敵。

木々の影さえもバーガンディワインの色に染まって

いるように感じるほど光の粒が漂う。

ロンシャン競馬場に程近い

ブーローニュの森の中でのフレンチ・オープン

勇気ある飛行機乗りの名を継いだ

ローランギャロスの風景は

ヘミングウエイの言葉を思い出させる。

パリは、いつも移動祝祭日だ。

1995年に4/128となったこの場所に

伊達公子は還ってきた。

ピレネーの山中で

あたかも高地トレーニングをしてきたかのような

マッチをこなし

ダブルスファイナリストになった伊達公子

その体に流れる血の酸素は

ペリエの泡のように

乳酸を蹴散らして

新たなエネルギーをその体に充填してくれた。

そんな彼女を14年振りに迎えた

ローランギャロスのプレスセンターに

お邪魔しよう。

ドアを開けると

各国語のうねりの様な

ざわめきが聞こえるだろう。

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posted by テニスハート at 2009年05月20日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Steffi&Monica二人の女王がいた夏1996

雨だからミステリーでも勉強しようを

気取る訳ではないが

森上亜希子さんのブログでのスペシャルランキング

に関しての記事に啓発され

脳裏に浮かんだ事件。

それが1993年4月30日。

ドイツ・ハンブルグでの出来事。

暴漢ギュンター・パルシェにモニカ・セレス

背中を刺されたあの事件。

雨だから昔のランキングの出来事でも

振り返ろう。

なんてキャッチ・コピーが浮かんで来たこの事件に

関するランキングのお話をしてみたい。

この事件が起きて、

モニカが復帰するまでの2年半。

WTAが執った処置は異例中の異例な処置だった。

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posted by テニスハート at 2009年05月15日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ラストエイトクラブって何?

[伊達公子] ブログ村キーワード

1995年に全英ベスト8に入った伊達公子選手。

相手はヤナ・ノヴォトナ選手でした。

ヤナというぐらいですから

結構苦手とされていた相手でした。

しかしこの日から伊達公子選手は

ウィンブルドンクラブ委員会から

特別な扱いを受けるようになります。

これは現在に至っても変わっていません。

さてどんな特別待遇を受ける事ができるように

なったのでしょうか?



★伊達公子の哲学を知りたいなら★


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posted by テニスハート at 2008年10月04日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クルム伊達公子選手は左利き?

[伊達公子] ブログ村キーワード

先日、私のブログにお越し頂いた読者の方から

伊達公子選手は左利きですか?という御質問を

頂きました。

そのときは、うろ覚えで”晴れのちテニス”に

書いてあったようなとのレスを書きましたが

これは間違いでした。

色々な方が、この事に言及されています。

もっとも信頼できるのは

HPとの提携ホームページで

テニスマガジンの牧野編集長が書かれている

記事ですね。

日本HPクルム伊達公子選手スペシャルコンテンツ

自分所有の伊達公子関連の書籍をしらべましたら

ようやく本人が書いた文章の中で発見しました!

その本の中で伊達選手はなんと言っているでしょう?


プロテニスランキング続きを読む
posted by テニスハート at 2008年09月19日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勝負脳ー日本人初メダリストの頭の中

日本人が初めて参加したオリンピックは、1912年(大正元年)、スウェーデンのストックホルム大会であった。

1916年のドイツ、ベルリン大会は第一次世界大戦勃発で中止となっている。

この事情から鑑みると、1920年(大正9年)、ベルギーのアントワープで行わ

れたオリンピックで日本が初メダルを取ったという事は、当時の日本人が如

何に早く国際社会に適応できたかを物語っている。

多数の選手団を送れる現在とは違い、環境の違う中で孤軍奮闘できたと言う

事は相当な精神力と戦略を当時の日本人は兼ね備えていたのである

V9の偉業を後に達成する事になる川上哲治が、

この1920年に生まれ

現在使用されているオリンピック旗がこの大会から使用されるなど

象徴的な年でもあった。

しかしながら第一次世界大戦敗戦国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、トルコは参加を許されないなど、

本当の意味での平和の祭典には程遠かった。

そんな激動の時代の中で得た日本人初メダルの競技とは何だったのだろう?


〈勝負脳〉の鍛え方


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タグ:勝負脳
posted by テニスハート at 2008年08月27日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ソフトテニスは日本の発明?

いわゆるローンテニスが日本に伝来したのは

1878年(明治11年)の事であるが

外国人居留地でのみ行われていた。

いわゆるレギュレーションといわれる硬球は

当時は高価だった為、ゴム球によるテニスのほうが

先行して全国各地に普及した。

このゴム球による大学間の対抗戦が

1898年(明治31年)に

高等師範学校(現筑波大学)と

高等商業学校(現一橋大学)との間で

行われた。

この高等師範学校が三田土ゴムに国産ゴム球開発を依頼。

1900年(明治33年)に国産化に成功し

これをもってソフトテニスの始まりと言われている。





それでは、ここで問題です。
当時(明治23年から明治25年頃)、フェルト表皮の硬球は
いくらしたでしょうか?

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posted by テニスハート at 2008年08月05日 | Comment(0) | TrackBack(0) | テニスのトリビア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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