布井良助取材日記@ ライジングの元祖は布井選手?

ブログは書き手優先というコメントに励まされ

布井選手の話題を小出しにしていきます。

ブログは紙媒体と違い

即興性という面も無くはないので

こんなエピソードもあるんだよと言う

軽いエントリーです。今回は。

布井良助選手は、神戸高商出身のシティボーイ。

 この頃は、軟球と硬球の間の準硬式という

 分野の畠山隆夫氏の最初の門下生として

 知られています。

 1930年代当時の日本庭球界では、

 男子選手が女子選手のコーチを務めるのが

 一般的でした。

 原田武一布井良助

 女子選手の間では、2大ハンサム選手として

 人気があったようです。

 この辺のエピソードは後日詳しく別記事で。

松岡選手をソース顔にしたという表現からも

 わかるように、当時としては長身の選手でした。

 その長身を生かした高い打点でボールを捉え

 相手のスピードに合わせてコントロールし

 角度鋭く深い返球を得意としていました。

 これってライジングじゃないですか?

 

 テニスの歴史って宝石箱を開けるように

 わくわくどきどきしますね。

 それでは、又!

 


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posted by テニスハート at 2008年10月29日 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日本テニスの偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

デヴィスカップ1921年の初陣

1921年2月、国際庭球連盟の総会がニューヨークで開かれ

US庭球協会会長ジュリアン・マイリックの強力な大演説によって

日本の加盟が認められ、同時にデヴィスカップ出場が決定した。

日本には軟球テニス人口しか存在しないにも拘わらず

清水、熊谷という不世出の逸材の出場に理解を示しての

支援だった。

当時の参加国は13カ国。

イギリス、オーストラリア、インド、フランス、ベルギー

スペイン、アルゼンチン、デンマーク、南アフリカ

チェコ、フィリピン、日本。

この12カ国でインターゾーンという勝ち抜き戦を行い

デヴィスカップ保持国アメリカに挑戦すると言う

システムだった。

日本チームは、熊谷一弥清水善造柏尾誠一郎

3名であった。

第一戦のフィリピン、第二戦のベルギーの棄権により

3回戦に進んだ日本はシカゴ郊外

オウエンシャ倶楽部で8月15日

デヴィスカップインターゾーン準決勝に臨んだ。

さてその結果や如何に?


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posted by テニスハート at 2008年09月15日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本テニスの偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神和住純 日本人初のトーナメントプロ

神和住という姓は日本に一軒だけだそうである。

初めて尽くしの星に生まれたのが神和住純さんなのかもしれない。

両親ともに軟式全日本チャンピオン。

母親が妊娠6か月で国体に出ていた事から

テニス歴は生まれる前からと答える事にしているのだそうだ。

中学まで軟式だったのだが、高校で硬式に転向した。

硬式に転向した理由がふるっている。

”強くなったら外国に行ける。”

60年代の日本は、海外など夢の又夢だった。

兼高かおる世界の旅という番組が流行っていた時代。

そんな時に世界を目指す気持ちがあった神和住純

その世界への挑戦の結果は?




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posted by テニスハート at 2008年09月11日 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日本テニスの偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沢松和子 ウィンブルドン優勝への道程

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1951年1月に沢松和子は生まれた。

自宅にテニスコートがあったという自然な環境から

何時と言う事はなしにテニス生活は始まった。

小学校5年には既に父親とラリーをするほどの腕前になっていた。

1963年4月、松陰中学進学を契機に

楽しみのテニスから、毎日練習するテニス

つまり選手を目指すテニスに取り組み始めた。

指導者は、吉岡利治

武庫川女子大を全国的な強豪に育て

フェドカップの監督も務めた名指導者である。

吉岡は、テニスでは無く、足ニスだと沢松に説き

下半身の強化が必要な事を理解させた。

ただ三食食べるようにテニスをやる。

テニスは沢松の生活そのものになった。

その継続の成果は?




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posted by テニスハート at 2008年09月09日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本テニスの偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原田武一"テニスの原点"

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1920年代、デヴィスカップ熊谷一弥清水善三を送り込んだ日本のテニスは

世界の舞台で輝いていた。

しかし、全米3位までになった原田の晩年には、次第に力を落とし、

楽に勝てた国にも苦戦し、黒星を重ねるようになっていった。

日本人にあったテニスとは?を生涯追い続けた原田の遺書、それがテニスの原点である。

日本のテニスはクレーコートを基本に発展してきた。

それを支えてきたのがウエスタングリップである。

ところが福田雅之助がイースタングリップを唯一無二のものとして

紹介した為、日本のテニスは20年も30年も遅れてしまったと

原田は言う。

この20年代の活躍から50年後、再びウエスタングリップの王者

ビヨン・ボルグが彗星のように現れた時、

原田は意を強くしたのではないか?

それではウエスタングリップイースタングリップ

それぞれどのような背景を以て発展したのか解明していこう。



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posted by テニスハート at 2008年08月16日 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日本テニスの偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1955年全米ダブルス選手権

1955年、ジェームスディーンがこの世に別れを告げた時、二人の日本の

若者が栄光を掴んだ。

宮城淳加茂公成である。

1934年(昭和9年)三木龍喜ウィンブルドンを制覇して以来の

21年振りの快挙であった。

しかし残念な事に現地には日本からの記者も応援者もいなかったゆえ

記念の写真は一枚も存在していない。

全米といえばフォレストヒルズなのだが、ダブルスはボストン南西の

ブルックラインで行われた。

松坂大輔が所属するボストンレッドソックスのホームタウン

"フェンウエイパーク”にも近い距離にある

ロングウッド・クリケットクラブ

日本人が53年前に優勝している事に浅からぬ因縁を感じるのは

私だけであろうか?

それも当時日本には存在すらしなかった芝コートでの勝利だった。

決勝の相手は、この年2度勝っていたアメリカのモス・キリアン組であったが

本当の死闘は、準決勝だった。



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posted by テニスハート at 2008年08月15日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本テニスの偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウィンブルドンの覇者-三木龍喜

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昭和9年(1934年)日本テニスの天才"佐藤次郎”の突然の自殺に

日本デヴィスカップ代表チームは失意のどん底にいた。

佐藤次郎をウィンブルドンの覇者にする為に、

断り続けていたデヴィスカップ日本チームキャプテンを3年前の昭和6年(1932)から引き受けた三木龍喜の落胆ぶりは尋常ではなかった。

その三木龍喜は、今、佐藤次郎の弔い合戦に臨むが如く

ウィンブルドンのセンターコートに舞い降りた。

三木龍喜は、明治37年2月11日、紀元節の日、四国高松に出生。

由緒正しい武家の生まれで裕福な家庭で小学生の頃から

テニスに親しめる当時としては稀な環境で育った。

硬式テニスが日本で採用されたのは大正2年(1913年)

慶応大学庭球部が最初である。

しかし、硬式テニスが各大学に採用されるまでには

まだ7年の歳月が必要であった。

その翌年の大正10年(1921年)に三木龍喜

大阪市立高等商業学校(現大阪市立大学)に入学し

硬式テニスを始めた。

いわば日本の硬式テニスの第一期生である。

三木はすぐに頭角を現し、当時のテニス専門誌"ローンテニス”は

彼のスタイルをこう表している。

"自在の人なり。彼の前に難球無し。"

それでは、彼のその後を追っていこう。




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posted by テニスハート at 2008年08月13日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本テニスの偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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